「はあ……」


薄暗い部屋の真ん中で重いため息が何度も響きます。 鍋から発する青い光がため息の主を怪しく照らしだすのでまるでハリボテだらけのお化け屋敷のおばけ役です。 彼はひたすら鍋を掻き混ぜ続ける作業を行っていました。 その隣には信用できない師匠が安らかな吐息で眠っています。まるで地獄です。 魔法使いの弟子の精神と体力とやる気は完全に0に等しくなってきました。

コンコンコン
そのとき突然、ドアをノックする音がしました。

千尋は一瞬手を止めてドアの方をたものの、また鍋の方に視線を移しました。 この間もこんなふうにドアをノックする人がいましたが、この辺鄙な場所を訪問するような人物は大抵おかしな人達です。 今の千尋にはそんな人物に対応する気力がなかったので、居留守を決め込んだのです。

コンコンコンコンコンコン
ノックは鳴り止みません。

千尋は諦めてドアを開きました。暗くて顔は見えませんが、どうやら自分より背は低いものの男のようです。


「……どちらさまですか」
「みっみずうーーー!!」


怪訝そうな顔で尋ねた千尋を無視して、その男は勝手に部屋の中へ入りこみました。


「ちょっと暴れると危ないっすよあんたの命が」
「水を……くれ」
「買い出しめんどくて行ってないんで、スイマセン……なんもないです」
「水がない家とか初めて聞いたよ!?ちょっ僕がここで死んだらお前のせいだからな……あ、もうその鍋に入ってるのでいいや」
「!?ちょっとあんた」


いきなり入ってきた男は鍋に入っている青い液体をごくりと飲みました。 千尋がそれを止める間もないほどの速さでした。 よほど男は喉が渇いていたのでしょう。


「うるさいな……」
「師匠が起きた」


二人してソファの方に目をやります。橘は欠伸しながら千尋を見て、それから、男を見ました。 目をこすって、もう一度それを繰り返します。 千尋は何も言えずにただ立っていました。 無言の中、先に口を開いたのは男でした。


「あ、僕百瀬といいます。あまりの喉の渇きに耐えれないで勝手に鍋のなかのジュース?飲みましたすみません、ありがとうございました」


爽やかすぎる感謝の言葉を橘は理解できなかったのか、は?と眉をしかめて言いました。


「飲んだの?それ」
「え、なんか悪いことでもありますかね」


橘は少し考えるそぶりを見せたあと、百瀬を見て言いました。 心なしか楽しそうな表情だなと千尋は思いました。


「それ、液体のまま飲んだら狼になるんだよ。いつなるかは個人差があるけど」


百瀬は笑った顔のまま、動かなくなりました。 千尋もそんなことは初めて聞いたので驚きました。 ……え、僕が狼?冗談じゃない冗談じゃない冗談じゃない……独り言が聞こえます。


「でも心配しなくていいよ、北の魔女がそれを止める方法知ってると思うから」


百瀬の瞳に希望の色が射します。 自分でやってしまったことなので彼を責めるわけにもいきません。 よし、と深呼吸して彼は勢いよくドアを開きました。


「どうもすみませんでしたその北の魔女に会いに行って来ます!!」


彼は風のように去って行きました。


「何でそんな変な薬だって、俺に何も言わなかったんすか」
「狼になるって?嘘に決まってるでしょ」
「……は」
「ただ俺より先に味見したからずるいなって」
「……味見?」
「ゼリーの」
「これただのゼリーなの」
「あとメグが召し使い欲しいってうるさくてさ」
「……」
「眠いからもう一回寝るね。千尋引き続きよろしく」
「一回死ね」


この時ばかりは千尋も暴言を吐かずにいられませんでした。 こんなのやってられっか!そして哀れなことに北の魔女に召し使いとして送られてしまった百瀬のことを思い出します。 今自分がやることは、彼を引き止めてこれが嘘だと言ってやることだと千尋は思いました。 いくら知らない人とはいえ、自分の師匠の馬鹿な嘘を信じこませたままにしてはいけないと 彼の小さな正義が言ったような気がしたのです。 もちろん気がしただけで、本当はただこの単純作業をやるのが馬鹿らしくなったからでした。

千尋はそっとドアを開けて、久々の外の空気を吸って、振り返ります。 橘は起きる気配などありません。 魔女が住む場所へ行く道を千尋は歩きだしました。


「あーなんで俺ばっかり……だれか交代して